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| 生きる決意(1) |
| アサリやハマグリなど、貝の体はたいへん傷つきやすいので、それを外界にさらしたままでは生きていけません。そのため丈夫な貝殻が、体を守っています。 でも、殻に閉じこもったままでは、生きていくことはできません。外界から必要なものを取り入れたり、不要になったものを排出するために、貝は口を開かなければなりません。 私たちの心も貝に似ています。無防備な状態では心が傷ついてしまうので、殻を作って保護しています。そして、心が窒息したり、飢えたりしないように、心を開いて外界と交流しています。 心をどれくらい開けばいいのか、というのは難しい問題です。 人は物心がついたときから、さまざまな経験を通して、心の開き具合を学びながら育ちます。 世の中の人が、すべて自分を受容してくれる心温かい人たちであるならば、いつも心をオープンにして暮らせるのですが、それは夢のような話です。 自分を受容してくれない人、心が傷つくような言動をとる人が、私たちの周囲には必ず存在します。それらの人たちと全く付き合わないですむならば、楽に生きられるのですが、なかなかそうはいきません。それらの人たちと付き合うときは、それなりの覚悟が必要です。 今回から、この欄では、「生きる決意」というテーマで心の問題を考えていきたいと思います。 |
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| 日本でも脳死段階での臓器移植が行われ、人の生と死の境界線はどこにあるのか、マスコミでも大きく取り上げられました。人の死は心臓が止まったときだという素朴な考えは、医学の進歩によって訂正を迫られ、脳死という死の段階が設定されました。つまり、人の死には、「心臓死」と「脳死」という二つのレベルがあることになったのです。 ところで、生きている人にも「生きているレベル」があると考えたことはないでしょうか。脳死判定を待っている人は、ぎりぎりのレベルで生きています。それに対して、(一つの例えですが)甲子園のマウンドで力投している高校野球の投手は、最高のレベルで生きているように思います。このように、一口に生きていると言っても、ぎりぎりのレベルから最高のレベルまで大きな開きがあります。 「生きているレベル」には、大きな開きがあると言いましたが、そこに価値の差はないと思います。どんなレベルで生きていようと、私たちは存在することに意義があるのです。 今、自分がここに存在するということが、自分にとって最も大切な事実です。すべてのことは、そこから始まります。過去にどんなことがあろうと、今、ここに生きているということを自覚したいと思います。そして、それを生きる決意の出発点にしたいと思います。 |
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| なぜ、私はここに存在するのか。 哲学的な答えや宗教的な答えなどいろいろな回答があるでしょうが、本当に不思議な気がします。はっきりしている事実は、はるか太古の昔に存在した私の祖先から、絶えることなく連綿と命が受け継がれ、現在の私に至ったということです。ですから、存在すること自体が奇跡だと言っていいかもしれません。 そして、私にとってすべてのことが、今、ここに存在するということからスタートします。過去に起きた事実を覆すことはできませんが、これから先の生き方を変えることは可能だからです。過去と断絶した現在は存在しませんが、過去に縛られる必要はありません。過去の事実をどのように解釈し、どう受け容れるかということは、自分自身に任されているからです。 地球上の生物の中で、このように面倒なことを考えるのは、人間だけだと思います。人間以外の生物は、与えられた条件の中で自己を防衛し、子孫を残すという本能の命ずるままに行動すればいいのです。そこに迷いはないでしょう。それに対して人間は、迷いながら生きています。しかし、見方を変えれば、迷うほどに選択の幅があるということです。 自分を苦しめるような行動を選択することもできれば、喜びをもたらす行動も選ぶことができるのです。過去の事実を静かに受け容れ、よりよい選択を積み重ねることが、自分の生を充実させる道だと思います。 |
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| 八月号(生きる決意・2)で、今、自分がここに存在するということが、自分にとって最も大切な事実だということを述べました。けれど、自分が存在していることが苦しくてたまらないという思いがあることを知っています。 かつて、私自身がそうした思いにとらわれていました。その頃の私は、周囲の人たちとうまく意思の疎通が図れませんでした。いつもいらいらしていて、何でもないことに腹を立てていました。心が虚ろで、何をしても楽しくないのです。 自分が何のために生まれてきたのか。自分なんて、いない方がいいんじゃないか。そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回っていました。 何とか自分を変えたい。この不安定で苦しい状態から開放されたい。……思い切って、家出をしました。自分を知る人のいなところで、新しい生活を始めたいと思い、東京へ行きました。けれど、家出暮らしは数日で耐えられなくなり、結局、自分で家に帰りました。 家出をした馬鹿な奴だと周囲の人から軽蔑されているようで、以前にもまして人を避けるようになりました。本当は、みんなと親しく付き合いたかったのに。 あれから二十余年。今では、比較的落ち着いた精神状態が続いていると自分では思っています。当時の自分が、なぜ、あれほど不安定だったのかはよく分かりません。そして、どうやってあの苦しさから抜け出せたのか思い出せないのが不思議です。ただ、苦しさの中でもがいていたことだけを覚えています。 |
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| 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という言葉があります。「世の中のいっさいのものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ」と辞書(国語大辞典・小学館)では説明されています。これは一つの真実だと思います。私たちの生命は言うに及ばず、あの太陽にも寿命があるのです。ローマ帝国や中国の唐のように、隆盛をきわめた国家が滅亡した例を私たちは数多く知っています。 「諸行無常」は、私たちの思いや考え、行動にもあてはまります。希望に燃えて入ったはずの学校や会社を途中でやめてしまう人がいます。また、神の前で永遠の愛を誓った男女が、憎しみあって別れることもあります。 このようなことを考えると、私たちが、今、抱えている悩みや苦しみも永遠に続くことではないことが分かります。いつか必ず、今の悩みや苦しみから解放される日がやってきます。けれど、その日がいつか分からないので、私たちは不安なのです。どれぐらい耐えればよいのかというのは深刻な問題です。 心の傷は、骨折の治療のように手術をすればあと数ヶ月で快復するという見通しが立てにくいのです。思いがけないことがきっかけとなり、昨日までの悩みがうそのように消えてしまうことがあるかもしれません。反対に、さまざまな手を尽くしても、よい結果が得られないこともあるでしょう。いずれにしても、今の状況が永遠に続くものではないということを心の片隅にとどめておくことは、大切なことだと思います。 |
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| 戦国時代を生き抜き、徳川幕府を開いた徳川家康は、「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」という言葉を残しました。家康は幼少期を人質として過ごし、様々な辛苦の末に戦国の覇者となりました。その生き方からは、したたかさが感じられますが、天下を手中に収めるために、また、覇権を維持するために、家康は本当に思い荷を背負っていたのだと思います。 私たちも様々な荷物を背負って生きています。その荷物の重さを人と比べることはできません。自分にとって大切なことは、背負った荷物に押しつぶされないように人生という道を歩んで行くことです。 ところで、私たちは余分な荷物を背負いすぎているような気がします。他人をコントロールしようとしたり、受け容れるべき事実から目をそらしたりすることは、負担を増やすことにつながるでしょう。しかし、一度背負ってしまった荷物の中身を再点検するのは面倒なことなので、ついつい背負ったままになりがちです。そして、疲労は蓄積し、いつか倒れてしまうかもしれません。 私たち「こころのネットワークあいち」は、皆さんの背負った荷物を少しでも軽くしたいと願っています。電話相談やセミナー、ミーティングなどは、そのための活動です。皆さんと私たちが交流する中で得られた新たな気づきが、重荷からの解放につながると思います。 |
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明けましておめでとうございます。
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| 「生きる」とはどのようなことなのか。よりよく生きるにはどうしたらいいのか。生きるのが辛い状態から回復するためには何をすればいいのだろうか。……このようなことを自らに問いかけながら、この文章を書いています。その答えは会員の皆さんに対するメッセージであるとともに、私自身の存在に対する回答でもあります。 さて、「生きる決意」というタイトルを付けて文章を連載しているのですが、そもそも生きていくのに「決意」が必要なのでしょうか。世の中の人たちはどんなことを思い、何を考えながら生きているのでしょうか。そんな面倒なことを考えないで生きていける人もいるでしょう。反対に、生きる決意がくじけてしまい、自ら命を絶つ人もいます。 ところで、私たちは何か重大な選択を迫られた場合に、悩んだり、迷ったりすることがあります。その迷いというのは、選択の結果生じる現象を受け止める覚悟の有無と関係がありそうです。生きるエネルギーが枯渇していると、そうした覚悟がなかなか得られず迷っているだけで、意思を決定できないまま時が流れていくことになるでしょう。そうした状態から抜け出すためには、やはり「生きる決意」が必要だと思います。 人生のすべてをコントロールするのは無理なことです。「生きてりゃいいさ」をベースに、「何とかなるさ」をモットーにして、少し肩の力を抜いた「生きる決意」ができたらいいなと思います。 |
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| 私たちの暮らしは、絶えず何かを選択することで成り立っています。外出するときには衣服を選び、履き物を選び、目的地までの経路や交通手段を選び、知人に会えば挨拶の言葉を選び、……数え上げればきりがありません。もちろん、無意識に選択している事柄も多く、何かを選びながら暮らしているという意識は薄いかもしれません。 選択する事柄には、さまざまなレベルがあります。夕食の献立を何にしようかと迷うことと社会人として世に出るときにどんな職業を選ぶかということでは、選択のレベルに大きな差があります。それは、選択した結果に生じる影響力の違いによるものです。自分の一生を決定づけるような選択を迫られたときには誰しも悩んだり、迷ったりするでしょう。 ところで、ヒト以外の生物には、このような悩みが存在するのでしょうか。何らかの選択を迫られたとき、多くの生物は本能に従って行動するでしょう。高等な生物になるに従い、本能だけに頼らず、後天的に獲得した知恵によって選択の幅を広げていると思われます。それは可能性の広がりであり、選択の際に悩んだり、迷ったりすることは、さまざまな可能性が存在することの証明です。 私たちの悩みや迷いは、「より充実した人生を送りたい」という願いから生じるものです。ですから、悩みや迷いが存在することは悪いことではありません。そうした迷いや悩みを素直に受け入れ、さらに選択の結果生じる事実を受け入れる覚悟をすることによって、より良い選択ができると思います。 |
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| 「究極の選択」という問いかけがあります。「明日、地球が滅びるとしたら、あなたは今日、何をしますか」あるいは、「あなたの寿命が明日で尽きるとしたら、あなたは今日、何をしますか」という問いです。どちらも仮定の話で、座興の話題になることが多いのですが、明日をも知れぬ病に冒された人にとっては切実な問題です。 私たちは、自分の寿命を知ることができません。今、元気だとしても、それは明日の命を百%保証するものではありません。だれでも不慮の災害、突然の死を迎える可能性があります。その意味で、今、元気な人と病床にある人との差はないでしょう。けれども、「究極の選択」に対する態度には、大きな開きがあると思います。 今、元気な私は、明日も元気だろうし、三年後、五年後、いや十年後も元気だという仮定のもとに、人生のプランを立てています。それは、はかない願いだと思いつつも、毎日を何となく過ごしています。もちろん、一日一日を大切にしながら真剣に生きている人も数多くみえると思いますが、平凡な私は、時に流され、毎日反省することばかりです。 そんな私でも、「生きていてよかった」と感じる日があります。そんな日は、(特定の宗教を信じているわけではありませんが)やたらに、何かに感謝したくなるのです。ドラマチックなことでなくても、日常の小さなことに喜びを見いだすことが人生を豊かにする秘訣ではないかと思う今日この頃です。 |
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| 四国には、弘法大師の霊場が八十八ヶ所あります。私は信心深い人間ではありませんが、生きている間に四国へ巡礼の旅に出たいと思っています。それは、自分の人生を見つめ直す旅になると思うからです。理屈や何か裏付けがあってのことではなく、漠然とした思いによるものです。 「私はどのような人間なのか」「本当の幸せとは何か」など、答えが見つかったとたんに新たな疑問がわいてくるような問いかけにとことん付き合ってみたい気がします。その一方で、そんな疑問に捕われず、何も考えないで歩くことに徹した方が、人生の本質に迫ることができるような気もします。 実際に歩き始めたときには、どんな思いが去来するのか、巡礼を終えたとき、どのような自分に出会えるのか、楽しみにしています。 ところで、巡礼をするお遍路さんの笠には、「同行二人」という言葉が書かれていることがあります。それは、一人で巡礼をしていても、弘法大師と常に一緒にいるという意味だそうです。「同行二人」…、実に意味深い言葉だと思います。 巡礼者でなくても、私たちは常に「同行二人」です。それは、行動する自分とそれを見つめる自分がいるからです。「同行」とは「志」を同じくする人という意味です。自分の行動を見つめるもう一人の自分は、まさしく「志」を同じくする人にほかなりません。私のベスト・フレンドは、私自身なのです。 |
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| わが子を事故で亡くした先輩がいました。喪が明けて久しぶりに出勤した先輩は、本当にげっそりとやせ、人相が変わってしまったようでした。職場では努めて明るく振る舞おうとしていた先輩ですが、その姿はかえって痛ましく見えました。職場の同僚は、どんな言葉をかければよいのか、みんな戸惑い、決まり切った挨拶は交わすものの先輩と話をするときには緊張しました。 しかし、時の流れというものはありがたいもので、先輩の心の傷も少しづつ癒されているように思われました。表情もしだいに明るさを取り戻し、ときどきは自然な笑顔も見られるようになりました。また、久しく遠ざかっていた宴会にも出席できるようになりました。 でも、それは表面的な傷口がふさがっただけで、本当の心の傷が癒されたわけではないでしょう。先輩が生きている限り、息子さんを亡くした哀しみは、何度となくよみあがってくるでしょう。それでも、先輩は生きる道を選びました。先輩の心のなかでどのような葛藤があったのかは誰にも分かりませんが、何度となく押し寄せる哀しみに耐える中で、生きる決意が生まれたのだと思います。 どんな人にも過去があります。その過去がどのようなものであっても、過去の事実を変えることはできません。しかし、その過去に縛られて生きるかどうかを選択することはできます。その選択をするのは、あなた自身であり、「今」なのです。 |
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| 私は昭和30年代に名古屋の下町で子供時代を過ごしました。当時は、今のように自動車の交通量が多くなく、路地裏は私たち子供の格好の遊び場でした。当然、そこは民家の前なので、その家の人たちと言葉を交わす機会もたくさんありました。羽目を外して、近所の人に叱られたりすることもよくありました。叱る、叱られるという関係も、それだけ人のつながりが濃密だったことの表われだと思います。 また、電話の普及率もさほど高くなく、「呼び出し」と言って近所の家の電話を借りることが普通でした。当然、隣人に呼び出しの電話があれば、隣の家まで呼びに行き、隣人はわが家に上がって電話を使うことになります。当時は、それを面倒なこと、不愉快なことだと感じない隣近所の付き合いがあったのです。 ところで、現在の携帯電話の普及の様子は驚くばかりです。通学途中の高校生が携帯電話で話をするのも、職場や駅のホームなどで着信音が鳴るのも日常になってしまいました。今では、家族全員が携帯電話を持っている家庭も珍しくはないでしょう。携帯電話は、情報化社会といわれる現代を象徴する道具の一つだと思いますが、それを利用してどんな情報が行き交っているのでしょうか。 暮らしの便利さ、快適さと引き換えに、私たちは大切な何かを失ってしまったような気がします。物の豊かな時代にあっても、人とのつながりを豊かに保つ生き方があるはずです。私はそれを模索したいと思っています。 |
| 生きる決意(14) |
| たいへん暑い日が続いています。そのお陰でエアコンがよく売れているそうです。 熱帯夜と言われる蒸し暑い夜でも、エアコンがあれば快適に眠ることができます。私たちがこのような暮らしを手に入れることができるようになったのは、数十年前のことです。それ以前は窓を開け放していても、あまりの蒸し暑さに寝苦しい夜を過ごさざるを得ませんでした。だからといって、その暮しぶりが不幸だと嘆くことはありませんでした。日本の夏は暑いのが当たり前だと思い、その暑さも永遠に続くわけではなく、九月の半ばを過ぎれば和らぐことを知っていたからです。 快適さに慣れすぎた現在の私たちは、何かにつけてひ弱になっているのかもしれません。この世の中に完璧な人間はいませんし、全く悩みのない人生はないと思います。快適な暮らしが当たり前で、自分の思い通りにいくのが当然だと思っていれば、小さなトラブルがとてつもないストレスになるでしょう。思い通りにいかないのが人生だと考えれば、今、抱えているストレスは軽減できると思います。 自分の悩みの大きさ、深さを他の人と比べることはできません。自分にとっての深刻な悩みが、ある人にとってはほとんど気にならない事かもしれません。しかし、世の中には自分と同じ悩みを抱えている人が数多く存在することも事実です。自分一人で悩みを解決することは困難でも、それらの人たちとつながり、共に歩むことで、悩みを乗り越える気力がわき、具体的な解決策が見つかることでしょう。 |
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| 因果応報とは、人間の考えや行いの善悪に応じて、報いがくることを意味しています。世の中には、この言葉通りの事実もたくさん存在するでしょうが、善人にとんでもない不幸が訪れたり、悪事を重ねても平然と生きのびた人がいるのも事実です。世の中には、理不尽なことも数多く存在するのです。 理不尽な出来事に遭遇したとき、嘆いてばかりでは落ち込むばかりです。そこから一歩進むためには、理不尽だということを承知したうえで、自分の身は自分で守る決意をすることです。たとえば、自分が青信号で横断歩道を渡っていたときに赤信号を無視した自動車が突っ込んできた場合、相手の非を責めるよりも先に、その自動車を避けなければなりません。正しいか否かということよりも、安全が優先されるわけです。 人間関係についても同様です。だれが正しいかという視点ではなく、自分を守るために何をすればよいかということを考える必要があるのです。非のある相手を責めてダメージを与えても、(優越感は得られるかもしれませんが)本当の幸福が得られることは少ないのではないでしょうか。よりよい人間関係を築くために、正しいか否かという視点だけでなく、何を優先すれば心の平安が得られるかを考えることが大切なのです。 |
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| 私たちは、存在することに価値があります。生きていることそのこと自体に価値があるのです。それは、人間に限ったことではなく、この地球上に存在するすべての生物についてもいえることです。能力や性質、地位や身分などとはかかわりなく、何よりも生きていることを肯定したいと思うのです。 こうした思いは、理屈で納得するものではなく、心の奥底にある原初的な感覚によるところが大きいでしょう。その感覚は、自分の存在を他の人から認めてもらうことによって育つのだと思います。生きることの喜びは、他の人との絆の中で生まれるのです。 幼少期に、自分の存在を否定されるような環境で育った場合はどうなるのでしょう。自分が生きていること、存在していることを自分自身がうとましく感じるかもしれません。そのようなときには、新たな人との絆の中で自分の存在を人からも認めてもらいながら、自己の存在を認めようとする試みが必要となるでしょう。 「われ思う、ゆえにわれ在り」とは、フランスの哲学者デカルトの言葉ですが、自分の思いを話したり、書いたりして言葉にすることは自分の存在感を養う有効な方法です。 |
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| 前回に続いて、私たちの「存在」について思いを巡らせてみたいと思います。そんな面倒なことを考えなくても生きていける(現に生きている)人も大勢いることでしょう。でも、こうした問題に目を向けることによって、より充実した人生を送るためのヒントが得られることもあるはずです。 私たちは、生物の一種であるヒトとしての命と、他の人間と関わる社会的な命を併せ持っています。どちらか一方でも欠けてしまっては、私たちは生きていけません。 身体の健康面では何ら問題がないにも関わらず、周囲のヒトとの関係がぎくしゃくしていることによって憂鬱になることがあります。これは、社会的な命に対するダメージによるものです。後者のダメージは精神的なものですが、心と体は密接かつ微妙に結びついているため、身体にも影響を及ぼすことが少なくありません。 また、極端な例ですが、巨額の負債を抱えた企業の経営者が、「…負債者の皆様に顔向けできず…」という遺書を残して自殺したというニュースに接したことがあります。「顔向けできない」という言葉が、この経営者の社会的な命が追いつめられたことを端的に表しています。 次回は、私たちの社会的な命について、もう少し考えてみたいと思います。 |
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